mnre's diary

むぬれと読みます

めでたくない誕生日

もう二十代に突入してしまった。個人的には、二十歳を過ぎたら誕生日などめでたくもなんともない。肉体には衰えが見え始め、精神には凝りが生じてくる。若さは逓減する一方で、この貴重な資源をこれからどう活かすかに神経を尖らせなければならない。この世に生を受けた喜びと、あの世から成績が送られてくる恐怖が釣り合う頃合いと言ったら気が早いだろうか。そもそも、なぜデスゲームの正反対のような平和なこの世の中で、他人が一年間生き延びたことを祝わなければいけないのか。もしこの世に生を受けたことを一緒になって喜んでいるのだったら、とんでもない共感能力の持ち主か、他人の人生に対して過干渉な世話焼きである。多くの人は深く考えず、一年に一度風船が飛び、あるいは風船が膨らまされ、人々が自分の存在を肯定し、言うことを聞いてくれるラッキーな日だとばかり思っているのだろう。クリスマスやバレンタインデーの個人普及版といったところか。

こう言うと我が世の春を謳歌している皆さんから大顰蹙を買うので、普段は自分の中に押し殺し、自分の誕生日をSNSに公開しないというささやかな抵抗を続けている。おかげさまで直近の誕生日を祝ってくれたのは、親族、当時の交際相手、それに日本赤十字社だけだった。二十歳の時には加えて日本年金機構からもお祝いを頂いた。大人としての自覚を促してくれて、実にありがたい話である。もっとも、保険料は親に払ってもらっているが。

互酬性規範の観点からして、彼らが正しいのは確かだ。自分が祝われるために他人を祝う。私は自分が祝われる必要性を感じないので、他人を祝わない。誕生日をアピールしてきた友人には一応にこやかにおめでとうと言っているが、その言葉には空気の振動を伝える以上の役割を持たせていない。

私は反出生主義者ではないし、子供が産まれることは無条件に喜ばしいことだとも思うが、なぜいい年した大人が、自分が産まれたことを何十回も擦っているのか、実のところよく分かっていない。なんとも寛容で奇妙な社会だ。僕が東大に受かった3月10日も毎年のように祝ってほしいところである。