mnre's diary

むぬれと読みます

今年を振り返る

今年も色々ありました。

二年付き合った彼女と春に別れた。つまり、めでたくない誕生日を祝ってくれる人間が一人減ってしまった。お互いに未練がある状態で別れざるを得ない状況を作ってしまったことには痛切に責任を感じている。すったもんだの末、結局師走まで付いては離れを繰り返したが、来年からはもうそんなことも無くなるだろう。何が起こるか分からないのが世の常でもあるが。

彼女からは女性と目を合わせる方法 (冗談)から交際相手を怒らせない方法(未だに実践できていない)まで非常に多くのことを教えてもらった。今まで学びを得た人ランキングでは五本の指に入るだろう。その中で特に今身に沁みているのが、人間はそう簡単には変わらないという事実だ。昔を思い出してもそうだし、今の状況もそう。愚かな話である。

周りが着々と恋愛市場における戦闘力を高めているなかで二年間同じ相手にのほほんとしていた人間が、いきなり放り出されて上手くやることなど到底不可能だった。恋愛道がガラパゴス的進化を遂げてしまっていたのだ。今年に入ってから恋愛で経験した失敗は枚挙にいとまがない。傍から見れば中高生レベルのものもあるかもしれない。一つ話そう。

ある時、「雑談とは相手の話を聞くことである」という自己啓発本の主張を真に受けてしまった僕は、聞き上手になろうと一念発起し、交際相手に自己開示をほとんどせず相手から話を聞き出すことに専念しようとした。話を振られても「いや、僕の話なんか面白くないから(笑)」。結果、「そっちから話してもらわないとこっちだって話せないでしょ」「人の話もそうやってつまんないとか判断してるの?」とデート中に詰められた上、素直に謝ればいいものを僕もガキなのでつい色々と反論してしまい、かなり険悪な雰囲気になった(後にあっさり振られた)。クリスマス3週間前、丸の内のイルミネーションを見に行った時の話だ。おかげでクリぼっちの苦汁を舐めさせられた。今でも思い出すだけで苦笑いとため息が漏れる。言い訳はいくらでもできるのだが、ここには書かない。

しかし、それでへこたれないのが僕である。失敗する度に友人やChatGPT、教本からひたすらフィードバックを貰い、失敗の原因を考察し、改善策を練っていった。今回だけでも「つまんなくてもいいから自分の話をする」「怒られたら反論せず謝る」「有事こそスキンシップを」など多数の教訓が抽出できた。他にも、恋愛における各フローごとの対策や課題の三分類など、独自のノウハウを蓄積している。これらをまとめたドキュメントは既に5000字を超える勢いである。「悔しさは俺のパワーの源になるんだ」とは高校同期の言葉だが、まさにその通り、あの時感じた無数の悔しさと無念を晴らすため、一つの失敗も無駄にするまいと日々改善を重ねている。もちろん、一度失敗しただけでその後は完璧に振る舞えるようになるということはない。何度も同じ失敗をしてようやく学習するのが人間というものだ。結局人生は場数。

恋愛そのものというより、恋愛を通じて自分が社会復帰へと漸近していく過程が、めちゃくちゃに面白いPDCAをぶん回し、様々な相手と対峙してゆく。まさにレベル上げの感覚だ。おまけに、上手くいけば彼女までできてしまう。こんなに美味しい話があっていいのか。一方で、動機がそんなに単純な話で片付けられるわけでもないことに気づいてもいる。

未練たらたらなんてハズカシイ!と思っていた時に、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の宮崎駿スペシャルを観た。内容は割愛するが、巨匠と言われる宮崎駿が、あそこまで人間臭いの表現者だったとは、と大きな衝撃を受けた。僕は彼のように優れた表現者ではない(どころか、ブログで黒歴史を量産しているただの学生である)が、人間にとって人に抱く感情とはこれほど大きなものになりうるし、尾を引くし、それでも、捕らえ囚われを繰り返しながら、無理矢理にでも前に進んでいくしかないのだという、老翁の力強い生き様に心を動かされたし、ある種の共感すら覚えた。二年付き合ったのなら、整理をつけるのにも二年、あるいはそれ以上かかるかもしれない。「出会っちゃったんだからしょうがないよね」(宮崎)。今はただ、やれることをやるしかないのです。これはその一つ。

部外者からやいのやいの言われるのに疲れてしまい、SNSを使う頻度がだいぶ減った。これでメンタルヘルスが改善したのは思わぬ副産物だった。加えて今まで彼女にかなりのリソースを割いていたこともあり、対人の時間的・精神的資源を友人と就活に振り向ける余裕ができたことで、結果的に今年が有意義なものとなった。旅行には月イチペースで行き、北海道は3回も訪問してしまった。友人と飲みに行くことも増えた。去年までは月一回程度だったのが、今年の後半に入ってから週二ほどになっている。今までだったら考えられなかったことだ。いつもの面子で集まることもあれば、一年半ぶりに会う奴もいた。友達は大事。恋愛で失敗をするということは、それだけ人に話を聞いてもらいたくなるということでもある。様々な知り合いにどしたんを依頼したこともあり、人間関係が謎に広がった(皆さんいつもありがとうございます)。一番奇妙だったのは、どしたんをきっかけにこれまで一度も話したことのなかった高校同期と仲良くなり、5回目の対面で3泊の台湾旅行に出かけたことだろう。

就活は、まあ僕が食いっぱぐれる時は日本の終わりだという精神でまったり続けている。ジムにも通い始めた。最低週一で通うようにしていたら、体重が一年で5キロ増えた。来年は70キロに到達したい。

今年最も印象に残った旅行。新島にて
最近は何を考えているのかというと、実は幸せが何なのかよく分からなくなってしまった。最後に幸せだったのは去年の夏くらいまでだったか。どうしてだろうと考えた時、今の幸せの定義が「完璧であること」になっていることに気づいた。完璧な人生などあり得ないので、定義がこうなっている時点でもう幸せにはなれない。困った話だ。完璧な幸せなど、別に求めていないはずなのに。減点方式の末路。

いつの間にか、幸せがジグソーパズルになってしまった。パズルはおおむね完成している。遠目から見れば完璧で、美しい作品だと自分でも理解している。でも、あと少し足りないいくつかのピースが、汚れがついてしまったピースが、形が合わないのに無理やりはめ込んだピースが、どうしても気になってしまう。足りないピースを血眼になって探しても見つからず、汚れを落とそうと擦りすぎるあまり損じ、正しくはめ直そうとピースを外したまま放置している。そのせいで、周りの作品が余計に美しく見える。目下そのような状況だ。完璧さにこだわるべきか、もう妥協してノリで固めてしまうべきか。あるいは全く別のゲームを始めても良いかもしれない。それにしても、こんなくだらないことでくよくよ悩めるのもあと一年かと思うと、全てが愛おしく思えてもくる。それとも、就職しても意外と人間味あふれる人生を送っているのだろうか。

とまあ、よく考えてみたらそんなに悪くない一年だった。座右の銘の一つに「人間万事塞翁が馬」がある。良くないことがあっても一旦悩み切って、時間が経てばなんかやんやでケロっとして過去を肯定できるのは自分の良いところだ。周りに前向きな人(か、根拠なき自信家)が多いおかげでもあろう。

時はいつの日にも 親切な友達

過ぎてゆくきのうを 物語にかえる


松任谷由実『12月の雨』

来年は、歳のせいか凝り固まりつつある価値観を覆してくれるような、新しい出会いに期待したい。新たな趣味かもしれないし、芸術作品かもしれないし、旅先の風景かもしれないし、恋人かもしれない。来る者拒まず去る者追わず。自分からも動きながら、ともかく楽しもう。

今年も当ブログをご愛読いただきありがとうございました。良いお年をお迎えください。