mnre's diary

むぬれと読みます

陰キャ論

 この記事は青年期の思索の試みの一つであり、多くの誤りや反論が存在しうるだろうが、それら忌憚のない意見を私にお聞かせ頂くと同時に、暖かく見守って下さるよう読者諸兄にお願い申し上げる。

 古来の陰陽道によれば、万物は陰と陽の二種類の属性のうちどちらか片方に分類することができる。また、陰は悪、陽は善を必ずしも意味しない。各要素は対になっていて(光と闇、水と火など)、両方が存在することで初めて世界の調和は保たれる。

 現代における陰キャ陽キャという言葉はこの概念をある程度引き継いでいるもののように見受けられる。

 私の主張はこうだ。まず、世の中の人間はほとんどの場合「陰キャ」と「陽キャ」の二種類のうちどちらか一方に分類することができる。この二つの違いは、容姿、立ち居振る舞い、雰囲気、性格、言動、運動神経、コミュニケーション能力などの観点から周囲の人間および自分自身によって総合的に評価される。これらの特徴は先天的なものもあれば、後天的なものもある。自らの努力で向上させることができるものもあれば、そうでないものもある。

 陰陽道との大きな違いは、陰キャは悪とされ、陽キャは善とされていることである。上述の通り、陰キャ陽キャの違いは人間生活の根幹にかかわる特性が左右するから、有利な特性を持つ陽キャが高く評価されるのは論を俟たない。これは「垢抜ける」ことが良いこととされていることからも分かる。ある程度の素質を持った人間が可能な範囲で努力を重ね、容姿を磨き、内面を変えようと努力する。陰キャから陽キャへの道を歩む。これは大変喜ばしいことである。この陰キャから陽キャへの移行というのは本人の意向、本人の努力、周囲の承認の三つの要素がすべて揃わなければ達成することはできない。

 さて、運良く「垢抜け」に成功すれば輝かしい未来が待ち受けているが、そうでない者たちの人生は厳しいものとなる。陰キャとしての自分自身を肯定し受け入れなければならないのだ。

 先程も述べたように、遺伝や環境で決定されてしまい、自分の力だけではどうにもならない要素というのは残念ながら存在する。例えば容姿は、いくら美容やメイクに気を遣おうとも、元のパーツが劣っていれば限界がある。コミュ障や根暗な性格をいくら直そうと努力しても実を結ばなかったということもあるだろう。この時、元から恵まれていた天然の陽キャはそもそもこのカーストの存在を認知できず、成り上がりの陽キャは努力が足りないと断罪するのみなのである。なんと残酷なことか!こうした格差は決して是正されることはない。富の再分配を行ってくれる中央政府など存在しない。 仮に自分自身が陰キャであることを誇りに思っているとしても、周囲から見ればそんなことは関係なく、努力を放棄した哀れな下層民としか映らない。しかし、これが陰キャ生存戦略なのである。  余談だが、垢抜けてコンプレックスを克服し陽キャとなった人ほど他者(主に陰キャ)へ攻撃的となるのは、こうした苛立ちが背景にあるのかもしれない。

 陽キャとは、勝者である(このことは、陰キャが敗者であることを必ずしも意味しない)。

 陰キャとは、これまで述べてきたような厳然と存在する解消不可能な格差をいち早く悟り、主に属するコミュニティ内でリソースを無駄遣いせず快適に生活することに生活の主眼を置いた者たちである。

 ところが、驚くべきことに、私が大学に入学してから関わった人達は口を揃えてこの二項対立を否定するのである。(続く)